日々積み上がる積ん読タワーに立ち向かうブログ
 
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【2012.03.04 Sunday 】 author : スポンサードリンク
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『少年検閲官』北山 猛邦

本作の基本となるアイディアは依頼をいただく前からありました。当時、いわゆる「若手」の書くミステリに対して、名探偵や首なし屍体や殺人鬼や孤島や城などの本格ミステリ的な小道具を無自覚にただ並べているだけである、といった批評が少なからず見受けられました。その批評が正しいかどうかはともかく、そこから本作のアイディアが生まれました。あえて小道具の過剰性を物語のテーマに組み込んでみたわけです。書きたいことは最初から決まっていました。

http://www.webmysteries.jp/afterword/kitayama0701.html

ここではない、どこか別の世界にある日本を舞台としたミステリ。


その世界では新しい技術が開発され目まぐるしく時代が動いた1960年代に書物が禁止された。書物の中には犯罪や危険な思想を助長する有害なものが多く、代わりに世界中の政治家は人々にラジオを与えることにした。ラジオから流れる情報は政府が検閲済みであり、無害で安全とされた。


書物を隠し持つことは重罪とされ、焚書官に見つかれば家ごと焼かれた。


殺人や犯罪を題材にしたミステリなど、この世界では真っ先に削除対象になった。


主人公のクリスは英国から日本へ失われたミステリの痕跡を追ってやって来た少年(表紙手前)。海軍の軍人だった父は潜水艦とともに海底へ沈んだ。父が生前よく聞かせてくれたミステリの断片的な記憶を糧に、世界でも最後までミステリが生き残ったという日本を旅する。とある田舎の町に立ち寄ったクリスは、そこで不思議な事件に遭遇する。


何件かの家の扉に赤い十字架が書かれていた。親しくなった宿屋の少年ユーリの説明では、家の中にも同じような印が部屋の四隅に書かれているらしい。また町外れにある森には不気味な話があった。森に迷い込んだ人間が首なし屍体となって発見されたのだ。その森で消息を絶った人間は一人や二人ではない。


それら二つの事件は『探偵』と呼ばれる同一犯の犯行とされた。


クリスは犯人が『探偵』と呼ばれることに疑問を感じる。彼の知る『ミステリ』では、『探偵』とは正義であり、事件を解決する人物だった。クリスは『探偵』がミステリの知識を悪用しているのではないかと考える。この世界の人々は『ミステリ』を知らない。もし犯人が『ミステリ』を知っていて、その知識を悪用したのだとしたら、『ミステリ』を知らない人々には犯罪であることすら認識できないのではないか。事実、町の人々は目の前で自警隊の隊長が殺されても、それを殺人ではなく自然死だと言った。


クリスは音楽家キリイとの会話から、この世にはミステリの要素をパーツごとに分解し様々なものに隠した『ガジェット』と呼ばれるものが存在すると知る。この事件も『ガジェット』から知識を得た人間の犯行ではないか。『首切り』のガジェット。


『ミステリ』を知らない人々の町に、『ミステリ』を専門とする政府の捜査官がやって来る。エノと呼ばれる14歳の少年(表紙奥)は、少年検閲官と呼ばれ、生まれたときから膨大なミステリの知識を叩き込まれた『ガジェット』絡みの犯罪を専門に調べる政府の役人だった。


というのが大体半分。


ここから解決編に向かう。エノは登場した段階で犯行方法の目星が付いていて、あとは証拠集めと実地検分。トリックや犯行動機は世界観と密接に関わっていて、書物が禁止された世界というのが一つの大きなヒントになってる。


現実の『ミステリ』に触れ心が折れそうになりながら、それでも『ミステリ』に関わっていこうと決意を新たにするクリスと、本来それを止めるべきなのだろうが黙って別れるエノの短い時間で紡がれた友情の物語でもある。

JUGEMテーマ:読書感想文
【2012.03.04 Sunday 00:31】 author :
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海外児童文学あれやれこや

いまの子は海外児童文学を読まなくなってるの?

朝から少し荒れてましたね。

基本的な日本語が辿々しくて論理展開が滅茶苦茶なのを頭の中で整理しながら読まないといけないので大変。

昔は『赤毛のアン』や『若草物語』『あしながおじさん』から、『ふたりのロッテ』『エーミールと探偵たち』『長くつ下のピッピ』『トム・ソーヤーの冒険』『ドリトル先生』シリーズ、『ファーブル昆虫記』『シートン動物記』、さらにはアガサ・クリスティーやエラリー・クイーン、エドガー・アランポー、コナン・ドイルなどの推理ものに至るまで、「読書の入り口」が海外文学だったという人は多いと思う。

本当に? 語尾が「思う」で断定してるわけではないので、この人はそうだったんだな程度に受け取っておきましょう。

でも、今、子どもに本を買うために書店に行くと、かろうじて『赤毛のアン』がある程度で、自分が親しんだような本はあまりない。

そうかな? 上で挙げられたような本は今でも書店の児童コーナー行けば現役で並んでる気がするんですけど。書店の担当者によるんじゃないでしょうか。

実際、小学生のわが子の友達などにも、海外文学を読む子はほとんどいないと聞くし、出版関係者も「海外文学は子どもに全然読まれない」という話をしていた。

いったいなぜなのか。ある編集者は言う。
「かつては海外への憧れが強く、海外の文化を吸収・模倣していましたが、海外が身近になって、憧れる存在ではなくなっているということはあるのでは?」

自分の身の回り半径数メートル規模の聞き取りだけですよね。これ。ある編集者は言う、と、ここで編集者が登場して「児童文学が売れなくなったのは海外への憧れが薄れたから」と語るんですが、貴様どこの誰だ名を名乗れ。

報道ステーションに登場する「政府与党関係者」や「○○氏の側近」レベルに怪しいですよ。週刊誌の「関係者談」と同じです。

Twitterでは朝から主に出版関係者を中心として「この記事は酷い」で盛り上がってました。

でも、近年は旅行・留学などで海外に行く若者がずいぶん減っていると聞く。自分の身近なものにしか興味がなくなっているということもあるのだろうか。

などと意味不明な供述を繰り返しており。

この方は最初から「昔は海外児童文学を読む子が多かった。しかし今は違う」を前提に話してるんですが、その根拠となる事実は何ひとつ示されてないのにお気づきでしょうか。筆者が行ったのは小学生の子供に海外児童文学を読んでる子がいるか訊いたこと、実在するか分からない編集者のインタビューをはめ込んだことだけです。それと子供に訊くときも、例えば最近は学校でどんな本が読まれてるのと尋ねるか、上で挙げたような作品名を出して尋ねるかでも変わってきます。「自分が親しんだような本はあまりない」と書いたり、自分が子供のころ読んだ古典だけを海外児童文学として取り上げたりしてますが、今だって翻訳物の児童文学は次々に新刊が出てます。『ハリー・ポッター』や『ダレン・シャン』は、この方の中では海外児童文学の範疇に含まれてないんでしょうか。

私が子供のころ海外児童文学はこれくらい売れていて、今はこのくらいしか売れてないとする説明は一切なし。国産も含めた児童文学全体ではどうなんだって視点もなし。あと図書館の存在はガン無視ですか?

一番分からないのはここ。

「海外児童文学は日本に移行しなかったという面はあると思います。本好きの女の子はみんなかつて『若草物語』とか『赤毛のアン』とかを読んでから、後に日本文学に移行しましたよね。それは、日本文学はやはり男性を描いたものがほとんどで、女性を描くものがあまりなかったからだと思うんです。でも、そのかわりに海外児童文学を受け継いだのが、『少女マンガ』だったのだと思います」

海外児童文学は日本に移行しなかったという面はあると思います。本好きの女の子はみんなかつて『若草物語』とか『赤毛のアン』とかを読んでから、後に日本文学に移行しましたよね

短い中に「移行」という言葉が2回出てくるんですけども、この「移行」が何を意味するのかいまいち分からない。

“それは、日本文学はやはり男性を描いたものがほとんどで、女性を描くものがあまりなかったからだと思うんです。でも、そのかわりに海外児童文学を受け継いだのが、『少女マンガ』だったのだと思います”

ここが何度読んでも分からない。それは、で前の文と後に続く文が繋がってるように思えないし、そのかわりに海外児童文学を受け継いだのが『少女マンガ』だったのだと思いますも何のこっちゃか分からない。

二つの「移行」を軸に海外児童文学が日本文学ではなく少女マンガへ流れているという主張を組み立て直すと、

かつて少女たちは『若草物語』や『赤毛のアン』といった異国の物語で育った。日本文学には男性中心の話が多く、海外児童文学の流れを汲んだ(日本への移行)女の子の作品が無かったためである。少女たちは『若草物語』や『赤毛のアン』で自分と歳が近い女の子の物語に触れ、成長するに従って日本文学にも手を伸ばしていった(移行)。日本文学が受け取り損なった海外児童文学的なものを積極的に吸収し、『若草物語』や『赤毛のアン』に代わる存在となったのが少女マンガである。

こういうこと?

元の文が訳分からんのでツッコミ入れながら混乱してきた。

劣化斉藤美奈子と言うにも酷いな。

でも、今は、岩波書店が昔の挿画を残している程度で、他社からはメジャーな海外児童文学作品のみが、いまどきのマンガ・イラストなどの表紙で出版されていたりする。

子どもが手をとりやすいように……という意図はあるだろうけれど、本来「児童文学」だったはずのものをわざわざ「子ども向け」に装丁替えなどして読ませようというのも、なんだか寂しい変化ではある。

児童文学って子供向けじゃないの?

素晴らしい海外児童文学の数々に触れ、子供ながらに訳がどうたら言う生意気な子供でしたデャフフフフって自慢げに語る人が、大人になってこの程度しか書けないというのは、本なんぞ読んだところで文章を組み立てる力にはならないと示唆してるようで、面白くはあります。

【2012.02.29 Wednesday 13:35】 author :
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リンダリンダリンダ
評価:
山下敦弘,向井康介,宮下和雅子
バップ
¥ 3,527
(2006-02-22)

久しぶりに観てズシーンときましたわ。

ストーリーは至って単純。高校の軽音部でバンドを組んでいた女子高生たちがいて、メンバーの一人が怪我してしまう。彼女の怪我でなぜか直接の原因でも何でもない二人が仲違いしてしまう。バンドは空中分解。文化祭のライブやるかやらないか。このままでは演奏出来ないところに追い込まれてしまう。


この映画は特別な意味をキャンセルすることで走る。プールに浮かぶ香椎由宇が「ライブやるの? やらないの?」と訊かれ、「やる!」と答えるまでの間に理屈や意味はない。彼女はプールに潜り、上がってきたら「やる!」と言うのだ。そこに意味はない。韓国からの留学生ペ・ドゥナをボーカルに引き入れたのも訳あってのことではない。喧嘩相手との話の流れからボーカルを決めねばならなくなり、たまたま通りかかった――それもけっこう離れた場所を――ペ・ドゥナを見つけ、ボーカルやらないかと尋ねる。ペ・ドゥナは日本語が完璧じゃないから何を言われてるか分からぬまま「やります」と答えてしまう。日本人が英語で話しかけられると取り敢えず「YES YES」と言ってしまうようなものか。文化祭で演奏する曲がブルーハーツに決まったのも、ジッタリン・ジンと間違えてテープに入っていた曲がブルーハーツだったからという、これまた特別な意味はない。


ここには意味がない。あるのは「決断」だけだ。決断とは意味がないところに生じる。意味や理屈から導き出される合理的な判断を超えたところにこそ決断が現れる。


映画とは無意味な決断によってこそ走り出すことを、この脚本は知っている。


文化祭の始まりを宣言するビデオメッセージの撮影で幕を開ける映画は、廊下の横移動へと繋がれていく。この映画ほんとに横移動が多い。横移動とトラッキング、パンで大半が構成されている。出来るだけカットは割らず持続した時間の中で少女たちの今を捉える。団地の階段の踊り場か何かで少女が好きな男の子に電話を掛け、ライブ前に空き教室で待っていてほしいと伝える姿をカメラはクレーン撮影し、彼女が階段下りて1階の仲間に合流するまでをカットせずに撮る。土手の場面では4人は印象的な横移動を見せてくれる。映画のアクションや活劇と言うと、跳んだり跳ねたりばかりを想像されるが、曲が流れ歌詞を口ずさみながら歩く人間を滑らかな横移動で捉える。これほど充実した活劇はない。横移動とは活劇のことだ。


『リンダリンダリンダ』の出だしは、高校という人生において僅か3年、たった3年しかない特別な時間、特別な場所、特別な人間関係の特別さを際立たせるように始まりながら、それがすぐに特別でもなんでもない「今ここ」の出来事として描かれるようになる。当然だ。私のように高校を卒業して何年も経っているような人間にはノスタルジックな思いを持ったり、あるいは嫌な思い出だらけの忘れたい過去だったりする3年間も、彼女たちには一瞬一瞬が連なる「今」でしかないのだ。


彼女たちにとって「今」は特別でも何でもない。有り触れた日常の一コマ。飽きるほど繰り返した1日。それが特別になるのは遠く離れてからである。


映画は彼女たちに「今」を生きる者だけが持つ特別な時間の無意味さを与える。


特別でも何でもない平凡な日々。その一瞬がどれだけ貴重なものか知らず振る舞う彼女たちを眺める。その貴重さは決して「意味」や「意義」に由来するものではない。そうしたものから離れた「何か」によって、この時間は特別なものとなるのだ。


『リンダリンダリンダ』は観客を外部に設定する。そのカメラワークはことごとく観客を「眺める人」として置き、彼女たちの「今」には立ち入ることが出来ない。このまま終わってしまうのか。山下敦弘はペ・ドゥナを仲間のもとから離し一人で夜の体育館に行かせる。彼女は誰も居ない体育館で独りメンバー紹介する。無人の体育館に。無人? 果たしてそうだろうか。この体育館にはペ・ドゥナの他に、もう一人居ないだろうか。


君だ。


「モグラ叩き如何ですか〜」と慣れない日本語で屋台の呼び込みを真似ながらペ・ドゥナは体育館を目指す。ステージに上がった彼女をカメラは正面から捉え、歌い終わった彼女の背後に回り体育館を映し、先ほどよりも遠い位置からのロングショットで正面から切り返す。このとき他の誰も居ない体育館で私たちはペ・ドゥナと彼女の特別な時間を共有したのだ。私たちは言わば共犯者なのである。それが今まで彼女たちをどこか遠いものと見ていた私を「バンドの一員」にする。もちろんそれは錯覚なのだ。そんなはずはない。しかし、そうした錯覚を起こさせる、信じさせる場が映画であり、演出の力ではないか。


本番で大勢の客に驚いたペ・ドゥナはステージ上で後ろを向く。仲間のほうを振り返る。3人は自分の準備で忙しい。正面顔を映されたペ・ドゥナの視線を受け止められる人物は画面を観てる君しか居ない。まるで5人目のメンバーとしてそこに立っているかのように「錯覚」させる。


ペ・ドゥナは、最初は高校生って無理あるだろ、正直な話4人の中で一番ミスマッチな人選だなと思ったのが、最後のステージでは誰よりも輝いて見える。彼女の歌唱は見る者の心に突き刺さる。


最後はあっさり終わる。バンドを組む切っ掛けとなった喧嘩相手とは簡単に仲直りするし、前田亜季の恋バナも「言い出せず」中途半端なままだ。でも、それでいい。焦ることはない。彼女たちにとってこれは特別な時間の終わりなどではなく、明日からも続く平凡な毎日の中の、ちょっと騒がしい1日でしかないのだから。それに気づいたとき、この映画を人生のある一時期にのみ許された特別な時間の記録として見ている自分に、私は泣けた。


私の特別な時間は終わってしまったのだ。

JUGEMテーマ:邦画
【2012.02.15 Wednesday 14:51】 author :
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『硝子のハンマー』貴志祐介
 JUGEMテーマ:読書感想文 

エレベータに暗証番号、廊下に監視カメラ、隣室に役員。厳戒なセキュリティ網を破り、社長は撲殺された。凶器は。殺害方法は。弁護士純子は、逮捕された専務の無実を信じ、防犯コンサルタント榎本の元を訪れるが--


見えない殺人者の、底知れぬ悪意。異能の防犯探偵が挑む、究極の密室トリック!「青の炎」から4年半、著者初の本格ミステリ!


日曜の昼下がり、株式上場を目前に、出社を余儀なくされた介護会社の役員たち。エレベーターには暗証番号。廊下には監視カメラ、有人のフロア。厳重なセキュリティ網を破り、自室で社長は撲殺された。凶器は。殺害方法は。すべてが不明のまま、逮捕されたのは、続き扉の向こうで仮眠をとっていた専務・久永だった。青砥純子は、弁護を担当することになった久永の無実を信じ、密室の謎を解くべく、防犯コンサルタント榎本径の許を訪れるが―。


これ読んだような気がしてたけど、しおりが第1部で止まってたわ。


大きく2部構成に分かれていて、前半は弁護士と本職は泥棒の防犯コンサルタントが密室の謎を解こうとする本格ミステリ。次々に仮説を立てさせては使い捨てていく中盤の三転も四転もする展開の気前よさ。そこから転じて第二部では犯人の視点で綴られる倒叙ミステリになる。


どうもレビュー読むと倒叙ミステリになってから面白くなくなったとか、作者は犯人の心理を描きたかったのかとか言われてますが、何を言いなさるかね。わたくしは2部に入ってからニヤニヤしっぱなしでしたよ。


普通ミステリというものは、特に探偵役が登場して「それじゃ今から謎を解きましょう」というものは、過去の話――すでに終わってしまったことの話をすることでしか終われない。密室の謎を解いて犯人当てるにしても、密室が作られた過程や犯人が被害者を殺した場面は既に終わってしまったことであり、探偵の論理はそれをなぞることしかできない。『硝子のハンマー』が面白いのは、著者オリジナルと言われる大胆な殺害方法やそれを成立させるためのミスディレクションもそうだが、ひたすら犯行に至る過程を現在形で解き明かしていこうとするところにある。


現在形――。これに貴志祐介はこだわっている。


倒叙ミステリとなった第2部で描かれる主人公の心理描写や犯行に至る動機は大して重要じゃない。お座なりと言ってもいい。それらは「取り敢えずの説明」ほどしかウェイト置かれてない。著者が本当に重要視しているのは「今ここ」で何が起こっているかの出来事性、現在進行形の語りである。


第1部の探偵パートと第2部の倒叙パートとが拮抗した関係にあり、常に出来事は過去へ向かうのではなく、今ここから未来へと開かれている。


これが面白いんすよ。

【2012.01.14 Saturday 23:01】 author :
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『THE QUIZ』椙本孝思
 JUGEMテーマ:読書感想文

――優勝者には賞金1億円。


そんな言葉に釣られ視聴者参加型クイズ番組に応募し、見事予選を突破した笠間翔太と添川陽奈だったが、それは正解すれば生き残れ、不正解なら殺されるデスゲームの始まりだった。外部への連絡は不可能、飲まされた遅効性の毒により180分後には全員死ぬ。最後に生き残った一人だけが解毒剤を手にできるルールで、果たして二人は他の参加者と協力して生き残れるだろうか。


そして。デスゲームを仕掛けた人間の真の狙いとは何か?!


……みたいな話です。


参加者が10人いるんだけど、彼らを充分に書き分けてないうちから死なせるんで、誰が誰だか分からない。漫画なら絵でカバーできるが小説でやられるとどちら様でしたっけ? という感じ。


人物を書き割りのうちにポンポン殺す一方で彼らに見せ場を用意してやりたいところもあって、というより死ぬ理屈を付けようとしてるのか、さっきまで陰薄かった奴が急に注目され出すと死ぬパターンが早い段階で読めてしまう。


一般的な知識・閃き問題は2問目までで、3問目からは参加者の個人的な事情に踏み込んだ問題が出される。これにより先ほどまではクイズの正解が分かっちゃうと誰が死ぬか読めてしまっていたのが、答えがこちらの知らないところに設定されてしまうため先読みを許さない展開になっている。


――のだが。


やっぱり目立つ→死ぬのパターンは不動なため、作者が狙ったほどは惑わされない。むしろ、さっきまでは誰が死ぬか先読みできても自分が解いたクイズの答えが合ってるかどうかで繋ぎ止められた興味が、ここにきて断たれてしまう。結局それは彼ら固有の問題に興味を示せるほど人物が描写されてないから。


こいつらが過去に何してようが今ここで殺されようがどうでもいいわ。そうとしか思えないくらい人物に魅力がない。この薄っぺらさは彼らの正体が***からくる内面性の希薄さとも関係してるのかと思ったが、そこまで考えて書いてるのかは分からん。仮にそうだとしても、それを成功させるには文章や技巧面にもっと知恵回さないと無理なんじゃ。


オチのアイデア一発頼みな小説。そこに驚けるかどうか。山田悠介系統ですね。

【2012.01.12 Thursday 15:30】 author :
| さ行の作家 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |